ぜんそく

このところ、体調が不安定。

体調というより、呼吸が不安定。

息苦しく、胸が鳥かごに入っているみたい。

いつからかというと、

7月に寝込んだときからだ。

あのときから、完全に戻らない。

年をとると、少しのつまずきで、身体が壊れてしまうのかもしれない。

 

7月に寝込んだときのメモを読み返してみた。

17.7.12

 

風邪で寝込み、6日目の夜。

 

いつもそう。

からだは教えてくれる。

不自然を教えてくれる。

 

ひとつはっきりしているのは、

あまりにサックスに取り込まれてしまったこと。

竹のサックスで「里の秋」や「涙そうそう」を吹いてみたい。

それは楽しい遊びの思いつきだった。

いつもそうだけど、もう思いついたらやらずにはいられない。

待ちに待ったバンブーサックスが届き、

天神山でほんの1時間ぐらい練習したら、仕掛けられたように寝込んだ。

熱、咳、頭痛、喉の痛み、喘息、

一週間、ほとんど食べず、眠れず、咳と頭痛に苦しんでいる。

 

そうでした。

わたしは喘息だったのだ。

サックスのような笛で、そんな急な呼吸をしたら、喉がやられるに決まっている。

笑いすぎたり、しゃべりすぎても、喘息になるのに。

こころの重荷をおろして、解放されてから、二年も発作が起きなかったので忘れていた。

バカですね。

 

サックスへの熱はいっぺんに冷めた。

わたしにとって、サックスを吹くのは不自然なことなのだ。

インディアンフルートでちょうどいい。

 

しかし、この、病むということ。

これがまた得がたい。

身体が苦しいのはまことに大変で、なかなか傍らで見ていることはできない。

その最中は特にね。

吐き気というのは特にひどく、吐き気とひとつになる。

情けない姿だけれど、便器に顔をうずめているとき、思った。

死ぬときは、安らかに旅立ちたいな・・・

この吐き気の中で死んでいくとしたら、肉体に巻き込まれてしまう。

だから、死ぬ瞬間のことを思ったりしながら、吐いていた。

 

OSHOが還るとき、「肉体は地獄だった」と言った。

OSHOが意識を肉体に戻すと、そこは地獄だったのだろう。

OSHOは、まったく自然に、いつ肉体から離れるかもゆだねていたのだと思う。

 

自然に生きる、ということが、今とても目印になる。

サックスにハマりすぎたのは、自然か、不自然か。

いえ、それも自然なのだ。わたしという自我にとっては。

自我は永遠に未熟だもの。

そして、真ん中へ戻そうとして、いろいろな連絡がくるのだ。

サックスにハマるのも自然なら、それによって病むのも自然だ。

この世界には、いつもバランスへと戻す風が吹いている。

 

自分の自然を流れていけたらいいな~

  

 

ここに書かれていることは、内容はどうでもよくて、

ただ、ただ、病という自然現象の中で、弱く、素直な自分の姿だ。

 

病むというのは、苦しいけれど、どこか大きな愛を感じる。

呼吸というのは、命をつなぎとめているものだ。

呼吸の前では、ひとはみな無力だ。

 

乏しい呼吸の中で、

わたしはいつも思う。

もう少し生きていなさいねと、

もう少し生きていましょうねと、

そんな源からのまなざし。

生きるも、死ぬも、自分のことではないような気がする。

なにかゆるぎない流れの中に在るだけだ。

 

わたしは、喘息という病によって、

何度もここに引き戻され、

そして、そこにはいつも放棄という安らかさがある。

 

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